第二次世界大戦下、ソ連軍の捕虜となった多くのポーランド将校が虐殺された「カティンの森」事件。東西冷戦下で永らくタブーとされていた悲劇を描く映画「カティンの森」(07)は、文字通り、ポーランド映画界の巨匠アンジェイ・ワイダ監督の集大成ともいうべき壮大な歴史作品であった。
  この一大叙事詩ともいえる渾身のライフワークの後に、休む間もなくワイダ監督が製作に入り、完成させた本作「菖蒲」は、前作とは打って変わってみずみずしい抒情に満ち、人間の根元的なテーマである「生と死」をとおして、生きることの源泉に触れた文芸映画の傑作である。


「菖蒲」の原作は、名作「尼僧ヨアンナ」で知られるポーランドを代表する作家ヤロスワフ・イヴァシュキェヴィッチの同名の短篇小説である。ワイダ監督は、この小説がもつ深遠なテーマを、映画芸術として見事に昇華させ、あらためて自身の限りない力量と才能を世界に知らしめた。そして2011年ベルリン国際映画祭では、多くの映画人の称賛を受け、「映画芸術の新しい展望を切り開いた作品」に授与されるアルフレード・バウアー賞に輝いた。


 
「菖蒲」は、撮影半ばに、主演のクリスティナ・ヤンダの夫であり、ワイダ監督の盟友でもあった撮影監督エドヴァルト・クウォシンスキの病死によって大きく改変されていった。このことにより完成した映画は大きく三つの世界に分けられ、それらが交差し、織り成すように構成されている。その三つの世界とはイヴァシュキェヴィチ原作の本来の物語、夫が亡くなる最期の日までを語るヤンダ自身によるモノローグ、そして本作におけるワイダ監督の演出風景である。


 
あまりにも遅く訪れる恋と、いつもあまりにも早く訪れる死――この映画では、春から夏へと移ろう美しい季節のなかで、生のみずみずしさ、若さの輝きとともに、老いや病、そして不慮の事故による死が浮き彫りにされていく。そして本作が描写する生のはかなさや死への不安の背景には、いつも大河が悠々と流れている。その姿は、無常な時の流れのように心に残り、ここには今年86歳を迎えたワイダ監督自身の思いが少なからず反映されているのだろう。


 
ワイダ監督は、作家ヤロスラフ・イヴァシュキェヴィチ(1884-1980)の小説を好み、これまでに「白樺の林」(1970)と「ヴィルコの娘たち」(1979)を映画化している。いずれも美しい田園風景を背景に、人間の揺れ動く心理を繊細に表現したものだ。ワイダ監督はその理由として、彼の小説が人間の現実にしっかりと根を下していること、登場人物の興味深い性格、恐ろしいほどの孤独感、そしてリアルなディテールを通じて示される人間ドラマなどをあげている。


女優クリスティナ・ヤンダはポーランドを代表する大女優である。日本ではワイダ監督の「大理石の男」(1977)「鉄の男」(1981)などで知られている。「大理石の男」では、歴史の彼方に忘れられた伝説の労働者についてドキュメンタリーを撮る学生を演じ、鮮烈な印象を与えたが、本作では、成熟し、倦怠と諦念を色濃くにじませた魅力的な中年女性マルタ役とともに、実人生で長年連れ添った夫を亡くした彼女自身の痛切な思いを語るというきわめて難しい役どころを見事に演じきっている。


ヤンダが語る「この映画は、去年撮る予定だった。…ワイダには出演は無理と伝えた」で始まるモノローグは心をうつ。彼女が独白する部屋の空間は、アメリカの画家エドワード・ホッパー(1882-1967)の代表作『朝日に立つ女』『朝の日ざし』からインスパイアされてデザインされた。孤独や憂愁、寂寥といった、ヤンダの思いが見事に反映された、この印象的な導入部は、本作が通常のフィクションとはまったく異なった語りの構造をもつことも明示している。


劇中、小説が読みたいという青年ボグシに、マルタが差し出す本は、ワイダ監督の代表作「灰とダイヤモンド」の原作(イエジ・アンジェイェフスキ作)である。「灰とダイヤモンド」は、<ワルシャワ蜂起>で、祖国への報われぬ愛を表明し、無残な死をとげた若きテロリスト、マチェックをめぐる慟哭に満ちた映画だった。マルタのふたりの息子が<ワルシャワ蜂起>で戦死し、夫婦の心に深い悔恨となって影を落とすエピソードは、ワイダ監督の創作である。彼にとっての永遠のテーマ、歴史と悔恨、そして失われた青春――「菖蒲」は、この普遍的なテーマを、みずみずしい描写でより一層深く掘り下げた名作である。



監督:アンジェイ・ワイダ/原作:ヤロスワフ・イヴァシュキェヴィチ「菖蒲」/ 出演:クリスティナ・ヤンダ、パヴェウ・シャイダ、ヤドヴィガ・ヤンコフスカ=チェシラク、ユリア・ピェトルハ、ヤン・エングレルト/2009年/ポーランド/87分/カラー/ポーランド語/シネマスコープ 原題:Tatarak/英語題:Sweet rush/字幕:久山宏一/配給:紀伊國屋書店、メダリオンメディア/配給協力:アーク・フィルムズ/後援:ポーランド広報文化センター